意識が遠のく中で変わらず感じていたのは壁の冷たさ。
いつまでも背中から拭えない岩壁の冷たさだ。
俺は本当に出られるのだろうか。
「出る・・・何から」
決まっているだろう。この状況から抜け出す方法を探してるんだよ。
お前が落ちたのは・・・
「井戸だ」
俺は目を開け、今の状況を知った。
地べたに触れたままの手を上げると水がぽたりぽたりと垂れてくる。
井戸の底はまだ水分をもっていて地についた俺から体温を奪っていく。
このまま夜になり、一晩明かすことになるのだろうか。
そんなのは最悪なケースだ。どこまでついてないか分からない。
第一に見つかったとしてもどう言い訳したらいいのかも考えてないし。
学校の帰りに狐にカバンを盗られて追いかけたら井戸の底に落ちたなんて
本当の事を言ったらどれだけ恥になるかわかりゃしない。
井戸の中から見える限られた空が赤みを帯び、夕方を過ぎて暗くなり始める。
さすがに不安を感じて助けを呼ぶことを考える。
「た・・・たすけて・・・」
一度声を出すと今まで押し下げていた不安が堰を切って出た。
「たすけて!出られないんだ!!たすけてよぉ!」
声を張り上げて泣き出す。
幼い声を張り上げる。
生意気でひねくれた性格だけど小さな体の少年はまだ小学生低学年ぐらい。
怖いものなんて無いと思ってた。
どうしようもないものは無視していけばいいと考えていた。
でもどうにもならない時っていうものが少年にとって初めて訪れてしまった。
とうとう少年は泣き疲れて座り込む。
「もしもし・・・だれかいるのぉ?」
頭上で声がして顔を上げた。
その時の俺はとっても情けない顔をしていたことを覚えている。
とても恥無しに思い出せるような顔じゃなかったと思う。
そして初めて彼女に会ったのもその日だった。


とてもやんちゃな性格の子で、いつも公園で泥をかけられた。
毎日泥だらけで家に帰ったあと、すごく怒られたっけ。
でも楽しかった。
いつも二人で遊んで、暇な日なんて一日も無かったからだ。
後に知ったことだが、その子は他の町に引っ越していくとかで
いつの間にか居なくなっていた。

そして俺はまた一人で遊ぶようになった。
そのうちある怪談が沸き起こるようになる。
神社に刀を持った男が現れるという噂である。
噂は次々と帆を広げ、神社に関するおかしなことは誰もが知っていた。
「永汰お前知ってるか?神社の男の話!」
俺はそういう根も葉もない噂に興味は皆目無かったので無知なままだった。
「実はあれ、死んだ人が息を吹き返した形なんだってさ!」
気持ちの悪い話だ。聞くんじゃなかった。
クラスの中はおかしな噂で持ちきりになり、知らない奴はいなくなった。
誰もがこの噂に奇妙さを隠し切れなかった。
ただの噂だけではなく、斬りつけられた人も多少なり出ているという。
・・・俺はこの日、忘れられないものを見た。
自宅に帰ると誰もおらず、書置きだけが残されていた。
「私は今日家に帰りません。誰か来ても出なくていいです」
出掛ける時書いた適当なものだろう。俺の親はめったに帰ることがなく、多忙な人だ。
俺は書置きを無視して家を出た。

公園へと足を運び砂山を弄っていた。
丁度神社のふもとに建てられた公園は気色悪い噂によってほぼ貸切状態だった。
たった一人で遊ぶことに俺は微塵の苦痛も感じることなく、
日照りが消えるまでそこでじっとしていた。
いや、日が消えるまで気付かなかったというべきか。
帰らないと。そう頭をよぎった時に俺は耳元で囁く声を聞いた。
「外へ出るか、出られるか」
俺の喉元には、刃物が押し付けられていた。



私は引っ越した。
誰にも知られることがなかった。いきなりの出来事だったから。
いつも何かを自慢する相手にしていた男の子にでさえ何も伝えることなく私は消えた。
どうしてだろう。私はいつの間にか何か無くしてる。
本当は何も減ってなんかないのに。
新しく越した町で親しくなれた友達とは何度か遊んだけれど
何一つ楽しくはなれなかった。
地の違いというものがあるのだろうか。退屈だった。
それから私は名前も知らないような小さい神社で暇を潰すようになる。
誰も掃除にも来やしない古びた所だ。
置かれた神様は一つしかなく、狐の像のみ。
深く黒ずんで苔が生えた汚い姿をしていたが遠い所を見ているその像がなんとなく好きだった。
水をかけたり泥を投げたり、上に乗ったりして遊んだ。
でも夜になったら家に帰らないとこれ以上無く怒られた。
殴られ頬に痣を作る日だって一日じゃなかった。
帰る所がこれ以上無く嫌いだった。
私はいつも孤立していたのだ。
この世界では。



俺は初めてこの時異形が言ったことの意味を知ったのだ。
知らなかったというのは罪ではないと異形は言った。
記憶の奔流が一方的に俺を襲う。
灰色の世界が映った。



建物が見える。しかし今まで俺がいた仮死世界にしては違和感があった。
色の無い世界しか見えないがゆれる木々はざわついた湿り気を持つことなく立ち並び、
さわやかな風が通り抜けて生い茂る芝を撫でていた。
ここは、神社。

やがて正式な神主の衣装を着こなした老練の男が戸を開いて現れた。
その表情は嬉しさを含んでいたが何処と無く暗く、下を向いていた。
暫くすると彼はゆっくり歩く足を止め、低く嗚咽を上げて泣き始める。
「誰がするでもない・・・。わしが身を棄てよう・・・」
老人はそう言って先ほど出てきた襖のほうを振り向く。
「たっしゃでの・・・遥ぅ・・・」
再び老人は歩き始め、山奥へ歩を進める。
今この神社で何が起きているのか永汰には理解できなかった。
興味は社の中へと移り、視界は大きな声が聞こえる戸の前へと変わった。
永汰はここで命の産声を聞いた。
必死に叫びながらこの世に現出して最初の感情を撒き散らしていた。
苦痛の叫び。否、これは命の叫びである。
戸を開き、新しき命の正体が現れる。
抱きかかえられた幼児。水の桶を持った人と何人かの大人。
何を思ったのか大人の一人は水を張った桶の中で
産まれたばかりの幼児を水に沈め始めた。
他の大人は暗い影を落とした表情でそれを見詰めている。
泣き叫んでいた幼児は息をしなくなり・・・。
絶命した。

息ができない苦しさを俺は感じていた。
首は勝手に下を向いている。その状態から首が動くことはなく、
体を動かすこともできないかった。神経が通っている感触が無いのだ。
意識が遠のく。体から意識が離れてゆく。
そこに見えたのは先ほど嗚咽を上げていた老人だった。
首を吊っていた。

俺は死を経験した。
喪失感が体を包み、真黒に染まってゆく。




想出