異変
闇の中から湧き出るあいつらをもう幾つ殺しただろうか。
やつらは壁、床、影、沼、鉄筋、木屑やら何を仲介して寄ってくる。
ゾッとするほど近くにまで寄ってきて忌みめいたぶつくさという呻きや耳が千切れるほどの叫びを吹きかけてくる。
今も尚、この木片で殴りかけてそいつらを殺、殺して、いるところ、だ。
弾けた後の吹き飛ぶ散るそいつは金切り声とも似つかない声を張り上げながらも俺を呪うために再集結している。
殴っても殺してもきりがないほどの量がいるということは百も承知だ。そんな、こともわからわからなくなワケが無、無い。
だって逃げても逃げてもあいつらは俺の、俺の処に来る、絶対に、俺の処に来るんだよ。来る、来る。
ほら来た。殴って殺さないと俺が取られてしまう俺の・・・俺が・・・
朝。あまりに眩しい陽射しが俺の部屋を明るい世界に染め上げている。
すごい寝汗をかいていたらしく、着ていた服はぐしょぐしょになっていた。
さっきまでの夢は何だったのか。
初めて聞く類の不安の警鐘に俺はなすすべなく身動きさえできずに座っている状態を解くことすらできずにいた。
ふとコトコトと音を立てる何かを耳にして、台所で食事が作られていることを知る。
既に9時を回っている。早々に着替えて向かうことにした。
食卓には朝食と思しきノーマルな品揃えが並べられていた。
ひとまず食事の前に神棚にひと祈りする。これは我が家訓というべきか、幼いころから習慣付けられたのだ。
「今日は何処か行く予定でもあるの?」
と尋ねたのは母。
「まぁね」
待ちに待った日曜日、という訳でもないが俺は日曜に毎度予定を組んでいる。
出かける予定があるというのは幸せなものだと、最近は感じるようになってきていた。
「ご飯はゆっくり食べなさい、そうでないと眼荷様に怒られてしまうよ?」
「怒られやしないって。俺良い子だし」
眼荷様、というのはこの地方で小さい子に警告を与えるときによく使われる神様のようなものだ。
俺の家は眼荷様の話となるとくどくなる。そんなに目頭立てて言うものでは無いと思うのだが・・・。
「じゃ、もう出かけるよ」
軽い荷物を背負って玄関を出たころ母が何か言ったが「いってらっしゃい」の意味だろう。
目的地はさほど遠い所ではない。歩きで十分だと考えた。
軽い足取りで辿り着いたのは、神社。
でも俺が用があるのは、
「あ、永ちゃんいらっしゃい」
こっちである。
神乃 谷枝。一番失くしてしまいたくないモノは何?と聞かれたら、俺にとって一番大切な彼女のことだろう。
急な出会いだった。落し物を見つけたのだ。
それは丸くて透明で、小さい花を散りばめた模様を含んでいた。
直ぐ前を歩くその人が落としたのだろうか、折角だからということで渡したら案の定、正解した。
ありがとうと流暢な喋りと笑顔を浮かべながらその落し物を目の前に掲げてみせた彼女は、とても綺麗だった。
そして落し物に書かれた遡納神社という文字。近所だった。
それは何時買ったものかと尋ねて返ってきた返事は
「買ったのではなく、遡納は私の家ですから」
神社の子だったということだ。
それからだ。神社に通っては話をするようになったのは。
今となっては二人で取りとめも無い会話をしながら商店街を歩くのが日曜の日課となった。
楽しい時間は簡単に過ぎ去ってしまう。
彼女の横顔を見ながら今まで本当に生きてて良かったと思えた。
お互い育った環境の微妙な違いが話を深めるせいか話題も尽きない。
学校では実は同級で調べ物の本を探しているのを偶然見ていましたよ、とか。
ここ、垣道という地は様々な木々が生い茂げ、山々に囲まれた場所に在する。
自然の種類の多さに気づいたのだって彼女と触れ合って初めて気づいたのだ。
植物が好きという絵に描いたような少女趣味を持つ彼女のしっとりとした性格でさえ俺は好きになった。
初めて心底落ち着ける仲というものを築いたと思った。
一生、ずっと共に生きていけると思った。
しかしそれは違った。
ひとしきり遊びまわって別れを告げて帰った真夜中に雨は降ってきた。
既に家に着いていた俺は彼女の無事を確かめるために携帯で連絡を取った。
コールしても、出ない。数分間コールしただろうか、台所で物音がした。
醤油瓶が倒れていた。黒い液体が食卓机を闇色に染め上げていた。
母は既に寝ているはずであったのに、こんな不吉な事があるだろうか・・・。
俺は傘を差し、玄関を飛び出した。
雷雨だ。吹き付ける風とともにこれ以上無い不安を助長する不吉な雷の音。
遡納神社までの道のりには、高い土砂の詰まったカーブがある。
崩れていた。土砂は道を塞ぎ、なだれていった土は山のふもとへ向かう雑木林に落ちていったようだ。
暗い闇を塗りこめたような黒の雑木林。
もしここに落ちたならばどんな絶望を感じるだろう。
体も自由に動かないのにこの雨の中、闇に体を潜める勇気などあるだろうか。
もし・・・彼女が落ちたならば・・・。
俺は雑木林へと脚を踏み入れていた。
ぬかるむ地面に傘を杖にして慎重に歩む。しだいに雨足は強くなっていく。
どうしてこんなことになったのか。俺が何をしたというのだろう。
今手にしていた幸せを誰が奪おうというのか。もし今電話がかかって、「やっと家に着いたよ」
なんて彼女の声が聞こえたなら取り越し苦労で済むのに。どうして・・・。
直線に降りてきたのが悪かったのか、地盤はひどい緩みだ。
上を向いたら岩が落ちてくるかもしれないという錯覚を背後に感じて後ろを振り向いた時、
異変が起こった。黒い何かが俺の胴体を押し出し、俺は重力任せに落ちていった。
異変